大阪みなとドライビングスクール

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幻の遊園地「市岡パラダイス」とは?

1959年(昭和34年)の設立以降、多くの教習生の学びの場となっている大阪みなとドライビングスクール。
この教習所ができる前、この土地には何が建っていたのでしょうか。この場所にはどんな歴史が刻まれているのでしょうか。その謎を解くべく、大正時代の史跡「市岡パラダイス」をご紹介します。

大正から昭和初期にかけて、大阪港の繁栄と共に港区の人口が大阪市内で最も多かった時代がありました。
町の賑わいにともない、多くの娯楽施設や商業施設が作られた活気溢れる時代。
港区にもそんな時代の先駆けとなる遊園地が建設されました。

名前は「市岡パラダイス」。

現在の大阪みなとドライビングスクールが建つこの場所に、今から91年前の1925年(大正14年)7月、華々しくオープンしました。
鳴り物入りで開園した市岡パラダイスですが、わずか5年でその姿を消してしまいます。
5年という短い営業期間でしたが、港区に商店街が営まれるきっかけをもたらし、地域の発展を支えました。
幻の遊園地となってしまった市岡パラダイスとは、いったいどんな場所だったのでしょうか。

1万2千坪を有する甲子園球場ほどの広大な園内は、パラダイスという名にふさわしく娯楽の全てが集約されていました。
大劇場・映画館・演芸館・スケート場・野外劇場・農園・小鳥園、設備はどれも当時の最先端をいくものでした。

特に、1000人をも収容できる大劇場は、ロサンゼルスにある米国初の映画館ミリオン・ダラーシアターの設計が取り入れられ、その屋上には真っ赤なネオンがきらめいていたそうです。
80坪の広さを誇るアイススケート場は、日本の室内リンクの草分けとしてロシアのプロスケーターを招聘するなど、アイススケートの普及に貢献しました。

さらに、四季折々の草花により色鮮やかに彩られた園内中央には、大きな池が設けられ、人口の石山が築かれていました。
石山の3方へは滝が流れ落ち、5色の電飾が施されていたようです。
池には貸しボートも完備され、なんとアシカまで放たれていました。

人気を博したのは「1000人風呂」と称された大浴場です。浴場には本格的な舞台が隣接され、温泉の後には人形浄瑠璃などの見物を楽しむことができました。

人々を最も驚かせた市岡パラダイスの目玉は、なんといっても飛行塔です。
高さ約30mの飛行塔は、当時東洋一とうたわれました。塔には飛行機を模したゴンドラが吊るされ、上下の動きを繰り返しながらぐるぐる回転していました。
当時としては珍しい機械仕掛けの遊具であり、また、飛行機が人々の空への憧れを高めた時代ということもあり、その斬新さと迫力は世間の注目を集めました。

サーカスに花火に洋画に漫才…これでもかと言うほどに娯楽を詰め込んだ市岡パラダイス。
しかし、その賑わいは長くは続きませんでした。
今のように交通の便はよくはなく、来場者が伸び悩んだ園は1930年(昭和5年)1月に閉園となりました。
大劇場と映画館だけが単独での営業を続けますが、戦火により劇場を残して焼失してしまいます。

2018年の現在となっては、その名残さえもなくなってしまいました。
しかし、たった一つその存在を物語るものがあります。

大阪みなとドライビングスクールの壁面にある顕彰パネルにお気づきですか?

「市岡パラダイス跡」

今日も多くの教習生が訪れる大阪みなとドライビングスクール。
90年前には、子どもたちのはしゃぎ声や大人たちの歓声が響いていたのでしょう。
人々の夢や憧れが詰まった市岡パラダイス、かつての遊園地に思いを馳せてみると、いつもの風景もまた一味違って見えるかもしれません。